みずかのたびにっき。

母からの「墓守娘の呪い」を解いて本当に幸せな自分を見つけるまでの旅の日記です

はじめまして、みずかです。
毒親とのエピソードを読みたい方は、 [みずかの歴史]にあります。

虐待された子どもは誰への赦しを請のか、ということについての一つの答え。

親からされた虐待からどうやって自分が立ち直るのか、そして家族に苦しい思いをさせてしまってどうやって立ち直ればいいのかということについて。

文章に残しておかないとたぶん忘れてしまいそうだとおもう。

スキーマ療法やカウンセリングを通して親の虐待を受けた自分が、その行為をしないということに対する悔しさをどうやって晴らしたらいいのかずっと思考のスパイラルにいた感じがする。

前に読んで怒りの余り破って捨てた本には「親だから許しましょう」と書いてあった。そんなことは当然できることもなく、ただ自分がされた理不尽な怒りとそれをしないことで「どうして自分だけこんな目にあったんだろう」と悔しさを理論的に受け止めようとしていた。

小松原織香「当事者は嘘をつく」という本を読んだときに、性的被害にあった著者は結局加害者をどう許したかいいかでぐるぐるしており、結局どうにもならないという話を書いていた。そこにかいてあったデリダの「赦し」という話について結局、「赦し」は究極的に不可能ではないかと思う。

-- 引用 --
被害者が加害者を赦すためには、両者の対話が必要である。加害者と被害者の間で起きたできごとが、どんなものであったのかについて、両者が合意した上で、初めて出来事を問題化できるからだ。被害者が味わったできごとは、その人だけが経験する、他にはない唯一無二の独異な経験である。すなわち、他の誰にもわからない、被害者だけが知っている経験である。それを被害者が言語化し、加害者に伝えることで、対話は始まる。
「赦しについての哲学的研究 : 修復的司法の視点から」(小松原織香)
--ここまで--

結局ここからレヴィナスに自分的には戻る。本当に「赦し」は必要なのだろうか。ホロコーストで殺されたユダヤ人はナチス・ドイツを「赦す」ことは可能なのだろうか。同じように、私は親を赦すことが必要なのだろうか。幸いヒトラーと違い親は生きているので対話は可能だけど、正直しんどい。

ずっと考えていたことをカウンセリングで語っていたら「被害者が加害者という『特定の誰か』に怒りを向けるものです」とカウンセラーに言われた。私に必要な「赦し」は「両親を赦す」ということではなく「『私の中で生まれた陰性感情』は『両親』に向けること」を「赦される」必要があったんではないかと思った。だから私の怒りはすべて両親に向けて放たれるべきもので、決して家族に向けられてはいけないものである。だから、もう怒ることがあってもそれをスパイラル的に増幅する前に、「両親向けて放つ」ことで増幅し、よくわからないものになるということはなくなるのではないかとおもう。

これで大分楽になるな、というメモです。